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調停には絶対に出席しないといけないのか

2019.03.29更新

家事調停は、ご本人の出席が原則です。

代理人弁護士をつけようが、本人にも出席いただく必要があります。

特に事情があれば代理人のみの出席で進めることも一応認められてはいます。

しかし、第1回と、結論が出る最後の調停は、本人出席が絶対です。

 

調停は1回あたり2時間はかかります。

前後の打合せや、裁判所までの行き帰りまで考えれば、その日は一日、調停でつぶれることを覚悟しなければいけません。

 

調停のたびに、月1回、仕事を休むのは大変です。

それはよく理解できますが、現行の制度上は仕方がありません。

私としても、離婚という事態の重大さを考えれば、やむを得ないと考えています。

この点は諦めるしかないです。

 

弁護士 小杉 俊介

「性格の不一致」は離婚の理由になるか

2019.03.27更新

離婚したいと思う理由でアンケートをとったら、恐らく一位は「性格の不一致」になるんじゃないでしょうか。

一方で、裁判所に離婚を求めた際、一番離婚に結びつけるのが難しいのも「性格の不一致」だと思います。

 

原則として、双方の意思が合致しないと離婚はできません。

一方からの請求のみによる離婚はあくまで例外です。

一方からの請求で離婚できるのはどんな場合か。

民法770条1項に列挙されています。

 

1.配偶者に不貞な行為があったとき

2.配偶者から悪意で遺棄されたとき

3.配偶者の生死が三年以上明らかでないとき

4.配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき

5.その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき

 

これだけです。

このうち、2~4は例外中の例外で、ほぼ出てきません。

1は不貞行為、要は浮気です。

問題は、5の「婚姻を継続し難い重大な事由」に「性格の不一致」が含まれるか、です。

 

気が合う、性格が合うからこそ、生活を共にすべく結婚する。

そう考えれば、「性格の不一致」は婚姻を継続し難い重大な事由の最たるもののはずです。

では、なぜ「性格の不一致」を理由とした離婚請求は認められにくいのか。

 

結局それは、離婚する合意ができていないから、です。

離婚したいくらい性格が合わないなら、当然、相手も離婚を望むはずである。

ところが、現に離婚の合意はできていない。

相手は離婚を望んでいない。

ということは、「婚姻を継続し難い重大な事由」にあたるほど性格が合わないわけではない。

そういう理路になります。

 

でも、これはちょっとおかしいです。

人が「離婚したくない」と思う理由は別にある場合が多いからです。

具体的には、経済的な理由です。

 

離婚すると、生活が立ち行かない。

そこまで行かなくても、生活レベルは下がる。

それは当然ですし、よく分かります。

 

でも、「性格の不一致」で離婚したいと言っているのに対し、経済的な理由を持ち出しても、話がかみ合っていません。

私は、議論がかみ合わず、裁判所まで「性格の不一致」が持ち込まれる事態はなるべく減らした方が良いと思います。

具体的には、少なくとも「性格の不一致」が離婚事由に該当し得る、ということはもう少し積極的に認められるべきです。

経済面の保護は別途方策が打たれるべきです。

その方が、性格が不一致なのに離婚はできない、という不幸な事態を減らせるのではないでしょうか。

 

弁護士 小杉 俊介

「継続性の原則」なんて存在するのか

2019.03.25更新

子の親権が争いになった場合。

裁判所が考慮する要素の1つに、「継続性の原則」があると言われています。

子の監護状況はいたずらに変化しないほうが好ましい。

それまで子を監護している方が、継続して監護するのが望ましい。

そういう考え方のことです。

 

実際、調停や訴訟になる前にすでに別居している場合、子を監護していた方が親権者・監護者になることが多い。

これは事実です。

だからこそ、調停になる前に半ば一方的に子を連れて別居する、というケースが後を絶ちません。

裁判所の「継続性の原則」が子の連れ去りの原因になっている、と非難されることもあります。

 

でも、本当に裁判所は「継続性の原則」を採っているのでしょうか。

私は疑問を持っています。

結果的に、調停以前に子を監護していた方が継続して子を監護することになる。

そういう意味では、確かに裁判所の判断では「継続性」が重視されています。

しかし、それは「継続性の原則」なんてご大層なものじゃないと思うのです。

 

裁判所のいう「継続性の原則」とは、要は「裁判所には監護者を変更するだけの能力がない」ことの言い換えに過ぎないのではないでしょうか。

誰が監護者にふさわしいか調査する能力。

決定した内容を当事者に強制する能力。

何よりも、膨大な案件数をさばく人手。

裁判所には不足しているものが多すぎます。

それが、監護者決定の消極性に表れている。

「継続性の原則」とは、単なる現状追認の言い換えに過ぎないのではないでしょうか。

 

その「能力不足」の根っこまでさかのぼると、結局は明治民法以来の「法は家庭に立ち入らず」に至ります。

法は家庭に立ち入らないからこそ、実力不足が放置されている。

それを「継続性の原則」などともっともらしい言葉で言い換えてもしょうがないと思います。

 

弁護士 小杉 俊介

 

家庭裁判所の安全について

2019.03.20更新

東京地方裁判所が入口での荷物検査を始めたのは、1995年の地下鉄サリン事件の後のことでした。

地裁のすぐ裏の家庭裁判所の建物の入口での検査が始まったのはそれから随分経ってからです。

さらに、他の地方裁判所が入口検査を始めたのはほんのつい最近です。

一例を挙げると、さいたま地裁は去年でした。

もともとの建物が入口での警備を予定していなかったため、家裁の1階に行くには1回2階に上がってから廊下を渡り、また下りないといけません。

 

はじめは、なぜ東京地裁だけややこしい検査を要求されなければいけないのか、と思っていました。

でも直に、逆に、早く他の裁判所も入口検査を導入すべき、なぜしないのか、と考えを改めました。

裁判所は、ただでさえ緊張関係にある当事者が集まる場所です。

ましてや、特に東京地裁や家裁は混み合っています。

エレベーターはいつも満員ですし、家裁待合室では座り切れずに立って待つこともしばしばです。

何があってもおかしくない場所なのに、入口がフリーチェックなんてありえない。

経験を積むにつれ、そう考えが変わりました。

 

本日、東京家裁の入口前で不幸な事件が起こりました。

詳細は分かりませんので、事件自体についてはコメントできません。

入口を出たところとのことなので、裁判所として防ぎようがなかったのかもしれません。

 

ただ、特に最近の家裁の混み合いぶり、そして事務の手の回っていなさは、傍目にも限界に見えました。

さばき切れない人が殺到し、必要な対応がろくになされていないように見えました。

その中で起こったこの事件です。

私には、警備の強化はもちろんですが、それ以上に、まず、余裕をもって人をさばける態勢の整備が必要と思えてなりません。

 

今回の異常な事件を、何か自らの主張に結びつけるのには慎重であるべきです。

ただ、私は、家裁の現在の回っていなさ、その中で当事者が度を越した緊張の中に置かれていることについては、これを機にもっと周知され、対応がなされるべきだと考えています。

 

 

婚姻費用はいついかなる場合にも払わないといけないのか

2019.03.13更新

結婚している夫婦が別居した場合、収入の多い方から少ない方に婚姻費用を支払う義務が生じる。

それが基本です。

別居の理由は基本的に関係ありません。

夫婦には相互に扶養義務がある以上、別居したら婚姻費用支払義務を負う。

そういうことになっています。

 

でも、婚姻費用の支払いを納得いただくのが難しい場合も多いです。

配偶者が一方的に出ていった場合、別居を望んでいた訳でもないのになぜ婚姻費用を支払わなければいけないのか。

 

ましてや、残された方が離婚を望んでいない場合は深刻です。

ただでさえ、同居している時より、別居した場合の方が経済的負担は増えます。

世帯を2つに分けるのですから当然です。

子がいる場合、養育費よりも婚姻費用の方が高額になります。

子がいない場合には、そもそも養育費は発生しないので、離婚すれば婚姻費用などの月ごとの支払いはなくなります。

こうして、婚姻費用の存在が、望んでもいない離婚の方向に当事者を押し流していくことにもなるのです。

 

出て行った側が浮気をしていて、立場が悪くなった一方的に出ていった場合。

そのような場合に、婚姻費用の請求は権利の濫用だから認められない、という裁判所の判断がされた例はあります。

でも、これはあくまで例外です。

多くの場合、とりあえず生活に困るから、という理由で、別居の理由のいかんを問わず婚姻費用の請求は認められます。

 

でも、それで本当に良いのか、ということを最近考えています。

民法上、そもそも夫婦は同居義務を負っています。

同居を一方的に解消し、別居を開始するには、しかるべき理由がなければいけないはずです。

少なくとも、合理的な理由なく一方的に別居を開始した場合に、婚姻費用の支払請求が認められるのは不公平ではないでしょうか。

裁判所の実務を変えるのは大変ですが、本来は婚姻費用の支払いを請求する際には、別居に至る合理的な理由のある程度の立証まで要求されてしかるべきではないでしょうか。

その方がフェアですし、同じ金額を払う場合でも納得を得やすいと思うのです。

 

現在の日本の離婚にまつわる制度や裁判所の判断は、一方的に子を連れて別居する行動を正当化し過ぎており、そのことが当事者間の無用な対立を生んでいる。

婚姻費用もその要素の1つであり、変わっていくべきではないかと私は考えています。

 

弁護士 小杉 俊介

「子は母親のもの」なのか

2019.03.12更新

日本では、離婚後単独親権が原則です。

父親か母親か、どちらか片方だけが親権者となります。

「親権なんて財産の管理権だけ、離婚したって親子であることは変わらない」と言うことは簡単です。

でも、どちらかだけが親権者だけになった後も、対等の親同士であり続けるのは言うほど簡単なことではありません。

 

そして、多くの場合、母親が親権者になります。

事実としてそうです。

 

この理由として、裁判所は母性優先の原則を採用しているから、とよく言われます。

でも、多くの場合、それ以前の段階で親権者は決まっています。

当事者同士の意識として、「母親が親権者であるべき」と当然に考えているケースがほとんどなのです。

何故なのでしょうか。

 

私自身、最近まで、要は「母性」の問題であると考えてきました。

母親は本能として子を自分のものだと思う。

周囲も当然そう考える。

その結果としての「母性優先」だと。

 

でも、「母性」に答えを求めるのは間違いであると今は確信しています。

 

そもそも、離婚後単独親権という制度の出どころは「イエ制度」と「父権制」です。

結婚とは、「イエ」を形成する行為である。

「イエ」は家長たる父が統べるものである。

家に属するものは家長たる父のものである。

子もまた家に属し、家長たる父の所有物である。

単独親権という制度の根本にこのような発想があることを争いのないところだと思います。

 

「イエ制度」や「父権制」は、家の実態が失われるにつれ崩れていきます。

ところが、単独親権は制度として残ってしまった。

そこで、横滑りのように、子の所有者の地位についたのが「母」だったのではないでしょうか。

 

要は、「子は母のものである」とする発想の根本は、なんということはない、「イエ制度」であり「父権制」なのではないでしょうか。

イエのことは家長が決める。

こと子に関しては、母親が家長である。

ゆえに、子の帰属は母親が決めることである。

「子は母親のもの」となる裏には、そういう発想があると私は確信しています。

 

でも、当たり前ですが、子は誰の所有物でもありません。

子は独立した個人であり、親はあくまで監護の責任者に過ぎません。

そして、せっかく2人も親がいるのに、どちらかに監護の責任者をしぼる必要もありません。

「子は母親のもの」を前提とする発想は克服されていくべきです。

 

 

弁護士 小杉 俊介

 

弁護士は誰の味方か

2019.03.12更新

「相手の弁護士は、相手の味方ですから。中立の立場じゃないですから」

「私も、あなたの100%味方であって、仲裁する立場ではありません」

 

相談の際、こういった説明から入ることがよくあります。

相手には既に弁護士がついている。

離婚条件は示されている。

この条件で離婚してよいのか。

そんな段階で相談に来られた方に多いです。

 

こういった説明が必要なのは、弁護士というのは中立の立場だと無意識に誤解されることがよくあるからです。

また、「自分は中立の立場です」と明言しなくても、そう誤解されたままにしておいているんじゃないか、というケースもあります。

その方が交渉がよりスムーズに、有利に進むからです。

 

そのような場合には、まず、弁護士というものの立ち位置を明確にするため、こういった説明が必要になります。

それぞれの利益をぶつけあって、落としどころに持って行く。

公平な第三者が必要なら、裁判所に行く。

それが原則です。

 

ただ、弁護士としては、「本当にそれで良いのか」という思いもあります。

離婚は、借金や、債務不履行や、交通事故とは違います。

ある程度の確率で発生する人生のイベントであって、事件ではありません。

必ずしも対立する必要はない。

むしろ、対立しない方が良い。

 

弁護士に「中立の立場」が望まれる場面があるなら、それに答えたって良いはずです。

弁護士のところに相談に来られた途端、「どちらかの味方」にならなければいけない訳ではない。

それでは、ひょっとすると、対立を促すことに繋がるかもしれない。

 

対立的でない、双方にとってフェアな解決を目指す立場で離婚に関われないか。

少なくとも、そういう関わり方はあり得るんじゃないか。

まだ模索の段階ですが、そう考えています。

 

 

弁護士 小杉 俊介

面会交流の目的は「子の福祉」だけか

2019.03.10更新

「面会交流は子の福祉のために実施するものですから」

面会交流を行うことを渋る方や、対立が深刻なのに今すぐ面会交流を求める方に対し、よくこのように答えます。

 

離婚しても、子にとって親は親。

両親と交流を持つことは、子の健全な発育に資する。

だから、面会交流は重要だ。

これは逆に言えば、面会交流はあくまで子のための制度だ、ということになります。

子に会いたい親のための制度ではない。

そのことを伝えるためによく口にするのが、冒頭のセリフです。

 

でも、本当にそうでしょうか。

面会交流は子の福祉のための制度であって、子に会いたい親のための制度ではないのでしょうか。

 

親は子を監護養育する義務を負っていますが、子は親に対して何ら義務は負っていません。

そういう意味では、子に「親に会ってやる」義務はない。

それは正しい。

 

でも、それは「子は義務を負わない」ということしか意味しません。

親に、子に会う権利がない、ということは意味しないのです。

具体的には、元配偶者を含む第三者が、親が子に会うことを妨害することは許されません。

妨害する第三者に対しては、「子に会う権利」を根拠として妨害排除が求められて良いはずです。

 

元配偶者が突然子を連れて家を出ていってしまった。

そういう方の相談をたくさん受ける中で痛感しているのは、「子に会えない」ということがいかに人を傷つけるか、ということです。

夜眠れない。

体重が何キロも落ちてしまった。

仕事に集中できない。

そういう方はとても多いです。

子どもと引き離されるということは、それくらい重大なことだということだと思います。

私個人の実感としてもよく理解できます。

 

子に会うというのはそれだけ重要なことなのですから、親にとっての権利性が認められても良いはずです。

少なくとも、第三者にその権利行使を妨害される際には、合理的な理由が求められるべきです。

ところが実際は、同居する親の胸先三寸によって会えるかどうかが決まるというのが実情です。

 

「面会交流は子の福祉のために実施するもの」

それ自体は異論の出ない言葉の裏に、親の子に会うことの権利性を否定する意味が潜んでいないか、気を付ける必要があります。

少なくとも、親と子が会うことを妨害している当事者が口にしてよい言葉ではないのではないかと思います。

 

弁護士 小杉 俊介

 

別居時に持ち出されてしまった財産を取り戻せるか

2019.03.07更新

配偶者が家を出る際に、自分の通帳とカードを持ち出し、金を引き出してしまった。

何とか取り返せないか。

そんな相談を受けることがあります。

 

結論からいうと、現状はそれは難しいです。

自分名義であっても、夫婦共有財産なのだから、相手にも処分する権利はある。

引き出された分は、財産分与の中で解決する問題だ。

これが公式回答になります。

 

しかし、この回答はどこか変です。

夫婦共有財産というのは、あくまで離婚時に財産を分ける際の話です。

婚姻中は、夫婦といえど財産は別のはずです。

 

しかも、財産分与の基準時は離婚成立時ではなく、婚姻破綻時です。

離婚に先立って別居している場合、別居したタイミングが婚姻破綻時となることが多いです。

つまり、婚姻破綻しているのに財産の処分権はなぜか残っている、ということになります。

別居時が婚姻破綻時となるなら、「家を出る」ことによって婚姻破綻を確定させたのは「出ていった側」です。

その出ていった側が、財産の処分権を主張する。

この構図を納得していただくのは無理があります。

 

原則論で言うなら、別居時に持ち出された財産は、財産分与を待たずに速やかに返却されるべきです。

返却を拒む場合には、不法行為の成立が認められてもおかしくありません。

 

資力に乏しいので、とりあえずの生活のために財産を持ち出さざるを得なかった。

最終的には財産分与されるんだから、そこで解決すればいいじゃないか。

理屈は通りませんが、言いたいことは分かります。

でも、家を出ていく配偶者はお金がなくてかわいそう、というおおざっぱな理由付けで、人の財産を勝手に持ち出すこと全般を正当化するのはおかしい。

これは声を大にして言いたいです。

 

弁護士 小杉 俊介

 

『ジュリアン』評についてもう少し

2019.03.05更新

realsound映画部に掲載していただいた映画『ジュリアン』の映画評について、少し補足したいと思います。

後付けの言い訳のように取られるのは本意ではないのですが、この映画についてはもう少し説明しておいた方が良いと考えました。

 

そもそもこの記事を書き、realsound映画部編集部に掲載していただいたのは、この映画について非常に問題のある取り上げられ方が目についたからです。

以下、もう少し詳しく説明します。

 

まず、この点はきちっと断っておかなければいけません。

この映画の作品としての評価です。

私は『ジュリアン』は正直なところ「大したことない」映画だと考えています。

これは別に悪口ではないですし、記事で論評した内容とも矛盾しません。

誠実で、論評に値する映画だとは思います。

でも同時に、映画としてはやはり「大したことない」。

 

脚本の練られ方も、俳優の演技も、演出の冴えも、特出したものはこの映画にはありません。

劇伴を排しリアリズムにこだわった意図はよく理解できますが、工夫の無さが目につきます。

 

記事中で取り上げた「プラウド・メアリー」の使い方を例に挙げます。

記事では歌詞を例示し、この曲を歌ったアイク&ティナ・ターナーの背景を紹介し、なぜこの曲が使われたのかを分析しました。

記事で述べたのはあくまで私の解釈ですが、この解釈が間違っている可能性はまずないと思います。

 

自分の解釈力に自信がある、ということでは別にありません。

この曲の使われ方が、他の解釈があり得ないくらい「ベタ」だからです。

はっきり言って、例えば現在のアメリカの映画やドラマで、これほどベタなポップミュージックの使われ方を見ることは滅多にありません。

現代は、配信サービスを通じていつでも海外ドラマの最先端に触れることができる時代です。

アマゾンプライムの「ホームカミング」でも、ネットフリックスの「ロシアン・ドール」でもいいです。

「プラウド・メアリー」をフルコーラス使って家出少女の決意を語るとか、DVのイメージを忍ばせるといったレベルの、説明的で野暮ったいポップミュージックの使い方など一切出てこないのが分かります。

このシーンが分かりやすく象徴するように、はっきり言ってこの映画は作品として決してレベルは高くないです。

 

しかし、そのことは単体では別に取り上げるほどのことではありません。

問題なのは、これほど明確に、ベタに、野暮ったく「親子関係の二面性」を描いた演出意図を酌んだ論評がまるでなかったことです。

これほど明確な演出を見逃して、映画という作品について何を語るというのでしょうか。

 

気づいた自分が偉い、と言いたいのではないです。

記事でも書いたとおり、この「プラウド・メアリー」の場面は、物事の多面性を示す、映画の鍵の部分です。

父親は一面的な加害者ではないし、母親と小さい子も一面的な被害者ではない。

人間はそんな単純ではない。

それをこれだけ分かりやすい演出で示されていることをスルーし、あたかもこの映画が父親が加害者であり、母と子が被害者だと描いた映画だということにする紹介が目につきました。

 

より悪いのは、この映画があたかも「共同親権の悪」を描いた作品であるかのように紹介した方たちです。

私の同業者にも何人もいました。

共同親権の問題点を指摘し、日本独自の離婚後単独親権を擁護する文脈でこの映画を持ち出す論をたくさん見ました。

「大したことない」映画だと書きましたが、さすがにそこまで薄く浅い一面的な映画ではありません。

そもそも映画という芸術はそのような一面的な意見を伝えるものではないです。

 

そもそもこの映画は共同親権なり単独親権なり、親権の在り方について描いた映画なのでしょうか。

見た方なら分かると思いますが、この映画の問題意識はあくまで「DV」です。

離婚してもなおもDVが続くことについて描いた映画だ、というなら分かります。

しかし、それ以上に離婚後の親権がどうあるべきか、という点はこの映画では特に取り上げられていません。

もしそのような問題意識をこの映画から読み取ったなら、それはこの映画の中にあったものではなく、自分の中にはじめからあった意見を勝手に投影しただけです。

 

そもそも、離婚後単独親権という制度を維持している国は、いわゆる先進国では日本だけです。

そして、各国はかつての単独親権から共同親権へと移行してきたのであって、逆に共同親権から単独親権へ移行した例など聞いたことがありません。

当たり前です。

父権性を前提として、子を親の所有物として扱う単独親権から、子を独立した個人として扱い、父母を平等に扱う共同親権へ。

個人の自由と民主主義を前提とする限り、この流れに異を唱える意見など出てきようがありません。

 

断言しても良いですが、『ジュリアン』の監督に共同親権に異議を唱える意識などありません。

そもそも、共同親権以外の選択肢がある、ということ自体、日本以外の国の人は意識していないはずです。

ここ日本で、共同親権を問題視し、強制的単独親権を支持する根拠としてこの映画が持ち出されているなんて、多くのフランスの方にとってきっと想像外なんじゃないでしょうか。

 

なのに、なぜ『ジュリアン』が「共同親権の闇を暴いた映画」として紹介されてしまったのか。

この答えが恐らく正しいのではないか、という仮説があります。

それは、『ジュリアン』がアメリカでは『CUSTODY』=「親権」というタイトルをつけられているから、です。

恐らく理由はそれだけです。

 

なぜ「親権」というタイトルになったか。

これは推測ですが、「プラウド・メアリー」を軸として「親権」なる制度の両面性を描いた作品である、と担当者が考えたからではないでしょうか。

『CUSTODY』というそっけないタイトルには、「親権」についての意見は何ら含まれていません。ニュートラルです。

なるほど、この映画を構成する2つのプロット=ジュリアンとジョゼフィーヌのストーリーに共通するのは、「親権」だな。

じゃあ『親権』でいこう。

そんな感じでつけられた英語タイトルに思えます。

 

ところが、この映画が日本に紹介されるにあたり、『CUSTODY』という英語タイトルも一緒についてきた。

そうか、この映画のテーマは「親権」か。

とすると、作中で描かれるDVも「親権」に由来するのか。

ところでフランスは共同親権だ、とするとこの映画の描く悲劇も共同親権から生まれるのか!

 

その程度の単純な発想じゃないでしょうか。

『ジュリアン』に限らず、外国映画、特にアメリカ以外の国の映画が日本に紹介される際には、その紹介のされ方が映画の解釈にまで過剰に影響を持ってしまう、という例はよく見ます。

その映画の作られた文脈も、言語も100%は共有していない以上、それはある程度仕方がないことです。

しかし、『ジュリアン』についてはその弊害がかなり目につきました。

自分の主張につなげるため、人様が作った映画の趣旨まで捻じ曲げる。

それはやってはいけないことです。

 

少なくとも、この映画を「共同親権の問題点を描いた映画」だとして紹介した人は、自分の主張のためには嘘をつくことも何とも思わないほど不誠実か、映画をはじめアートというものがそもそもまったく分からないか、あるいはその両方です。

この解釈が間違っている可能性もほぼないと思います。

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