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「継続性の原則」とは何か

2021.08.30更新

離婚・監護権について裁判所で争う際、重視される観点の1つに「継続性の原則」があります。

子は、誰に、どこで、どんな状況で監護されているか。

子の福祉のためには、子の監護状況は理由なく変更されるべきではない。

それが「継続性の原則」です。

有り体に言えば、現状維持優先ということです。

 

継続性の原則は、かつては今よりさらに重視されていたようです。

しかし、継続性の原則には重大な欠陥があります。

例えば、一方の親が無断で子を連れて別居した場合。

残された親が親権・監護権を争っても、その時点での「現状」では、子を監護しているのはもう一方の親です。

継続性の原則により、連れて出た方が勝ち、置いて行かれた方が負けてしまうのです。

これでは、裁判所が「連れ去り」を推奨しているようなものです。

 

そこで、「継続性の原則」は見直されることになりました。

具体的には、現在の監護状況がどのように確立されたかによって、継続性をどこまで重視するかを分けるようになりました。

別居に至る過程に問題がなければ、継続性が重視されるのは変わりません。

一方で、別居過程が違法なものだった場合には、継続性を重視しない。

そう場合分けすることで、不当な結果を回避するという考え方になりました。

 

正直なところ、以上の考え方がきちんと裁判所で実践されているとは言えません。

一方の親に無断で連れ去っても、よほどのことがない限り違法とは評価されません。

裁判所による連れ去りの推奨は続いてしまっています。

 

しかし、少なくとも「継続性の原則」には欠陥がある、ということは意識されるようになりました。

それは1つの前進だと思います。

DV防止法の前文は今すぐ削除されるべき

2021.08.26更新

「我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、人権の擁護と男女平等の実現に向けた取組が行われている。

ところが、配偶者からの暴力は、犯罪となる行為をも含む重大な人権侵害であるにもかかわらず、被害者の救済が必ずしも十分に行われてこなかった。また、配偶者からの暴力の被害者は、多くの場合女性であり、経済的自立が困難である女性に対して配偶者が暴力を加えることは、個人の尊厳を害し、男女平等の実現の妨げとなっている。

このような状況を改善し、人権の擁護と男女平等の実現を図るためには、配偶者からの暴力を防止し、被害者を保護するための施策を講ずることが必要である。このことは、女性に対する暴力を根絶しようと努めている国際社会における取組にも沿うものである。

ここに、配偶者からの暴力に係る通報、相談、保護、自立支援等の体制を整備することにより、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図るため、この法律を制定する。」

 

配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律、通称「DV防止法」の前文です。

この文章を読んで、どう思いますか。

 

私は、

「配偶者からの暴力の被害者は、多くの場合女性であり…」

という文言が入っていることに強い違和感を覚えます。

その基礎となる事実認識に同意できない、ということではありません。

男女の体力差や経済力格差を考えても、各種統計を見ても、配偶者からの暴力の被害者は女性の割合が多いであろう。

そのことには異論はありません。

 

しかし、そのことをわざわざ前文で謳う意図は何でしょうか。

 

「この法律において「被害者」とは、配偶者からの暴力を受けた者をいう。」(第1条2号)

ここには、被害者に男女の区別はありません。

男であろうと女であろうと対等な個人ですから、当たり前です。

しかし、前文と組み合わせると、そこに

「被害者は女性に限る」

というニュアンスが生じてしまっていないでしょうか。

 

配偶者からの暴力の被害者には、男性もいれば女性もいます。

個別の被害者にとって、統計上、男女どちらの被害者が多かろうと関係ありません。

被害者は被害者であり、等しく救済されるべきです。

 

ところが、肝心の法律の前文で、上記のようなことを言っている。

女性の被害者を優先して救済すべきである。

その裏返しは、男性の被害者は優先順位が低い、ということです。

そのようなことを前文でわざわざ謳う意味は何でしょうか。

この前文は、今すぐ削除されるべきです。

 

現に、DV防止法に基づく保護命令事件では、被害者が女性か男性かで扱いは大きく異なります。

そんなことはないと裁判所は言うかもしれません。

しかし、私を含め多くの弁護士や当事者がそう実感しています。

 

その扱いの違いを生んでいるのは、この前文ではないでしょうか。

我が国の法律の中に、このような性差別的としか言いようがない文章が含まれていることを、日本人として本当に残念に思います。

 

さらに付け加えると、配偶者間の暴力は、男女カップル間のみで発生するものではありません。

男性同士のカップル間でも当然発生します。

この前文は、男性同士のカップル間の暴力はについては無視します、と言っているに等しいです。

この文章は百害あって一利なしです。

 

 

離婚後単独親権は制度として中途半端

2021.02.28更新

現在の日本は離婚後単独親権制です。

「離婚後」とあるのは、婚姻中は共同親権だからです(民法818条3項)。

では、なぜ離婚を機に単独親権になるのでしょう。

離婚後単独親権制の最大の論理的な問題点はこの点だと私は思っています。

 

離婚後親権制度を擁護する様々な意見があります。

「共同親権では、子に関する重要事項について意思決定できない恐れがある」

「離婚の理由がDVの場合、共同親権では避難が困難になる」

「単独親権でも、共同で監護にあたることを禁止しているのではないのだから、共同監護は可能」

「子に関わることは権利ではなく義務。子が親に会いたいなら会えば良いが、強制的に面会することになるのは好ましくない」

など。

しかし、これらの意見が仮に真だとするなら、なぜ婚姻中は共同親権なのでしょうか。

 

子に関する重要事項について争いが絶えない不仲な夫婦などいくらでもいます。

ある調査によれば、婚姻中の夫婦が離婚を考える理由第1位は「子の教育方針の違い」です。

教育方針で揉めるくらいなら、はじめからどちらかの単独親権としておけばよいのではないでしょうか。

 

DVの多くは父母が婚姻中の家庭で発生します。

DV被害者皆が離婚という形で避難できる訳ではありません。

単独親権にDV被害を軽減する効用があるなら、婚姻中から単独親権の方が良いはずです。

 

関係性が良好であれば共同監護が可能ならば、婚姻中も単独親権でも問題ないはずです。

 

親と子が関わるかどうかは子の意向によって決めて良いのであれば、同居中の親が親権者でなくても問題ないはずです。

 

そもそも、下手に婚姻中に共同親権にしておいて、離婚時に単独親権に変わる制度にしているから、親権争いが発生するのです。

離婚時に無用な争いを生まないためにも、婚姻中から単独親権とすべきではないでしょうか。

要は、離婚後単独親権を擁護すればするほど、では何故婚姻中は共同親権なのか、という疑問に突き当たってしまうのです。

 

奇をてらった思考実験のつもりはありません。

ほんの数10年前まで、世界の多くの国も今日の日本と同じく離婚後単独親権制でした。

それは恐らく、婚姻中も実態として単独親権だったから、ではないでしょうか。

家族の成員全員が家長の支配に服する制度の下では、子に対する支配権=親権は最終的には家長に属します。

離婚後に単独親権となるのは、正しく家長制の論理的帰結なのです。

しかし、家長が家を支配するモデルは、言うまでもなく個人の平等・両性の平等の原則に反します。

父母が対等の個人となれば、親権者がどちらか片方に帰属する理由はなくなります。

父母が対等となった以上、婚姻中の単独親権と同じく、離婚後単独親権も維持できないのです。

 

国によって制度の違いはあれど、多くの国が単独親権から共同親権に移行していったのは、上記のような理由ではないでしょうか。

 

結局、離婚後単独親権という制度は、個人の自由と平等が重視される世界に移行していく過程における、移行期の中途半端な制度に過ぎない。

数10年の歴史はありますが、中途半端な制度であることは変わらない。

移行期の中途半端な制度を、デフォルトのものだと考えてしまうことが間違いの始まりなのではないでしょうか。

 

「子の福祉」というマジックワード

2021.02.03更新

親権・監護権が争いになっている件では、「子の福祉」という言葉がよく出てきます。

面会交流は、子の福祉に配慮して実施する。

どちらが監護するのが子の福祉に適うかで、監護者指定を判断する。

でも、そもそも「子の福祉」とは何でしょう。

どのような内容を含む語なのでしょう。

 

私自身、「子の福祉」という言葉を使うことはよくあります。

裁判所が判断基準を「子の福祉」に置くことに異論はありません。

しかし、「子の福祉」という言葉の中身が何なのか、十分に詰められているとは思えないのです。

 

「子の福祉」という言葉の意味は曖昧です。

曖昧であるのをいいことに、濫用される場面も目立ちます。

 

「子が会いたくない」と言っているのに面会交流を実施するのは、子の福祉に反する。

果たしてそうでしょうか?

親子が同居している場合、子が親のことを嫌いだと言った程度で、親は子との交流から身を引くべきでしょうか?

同居と別居で何が違うのでしょう。

親と子が交流すること自体が、子の発達に資するのではないでしょうか。

 

別居している親同士の監護環境を比べ、どちらがより子の福祉に適うかを判断する。

しかし、親の都合で監護環境を変更しておいて、子の福祉をうんぬんすること自体、おかしくないでしょうか。

 

裁判所が最終的な判断基準として「子の福祉」を持ち出すのは理解できます。

しかし、現状は、当事者間で紛争の道具として「子の福祉」という言葉が持ち出される場面が目につきます。

「子の福祉」という聞こえの良い言葉を、相手方の親としての権利を制限するために使用している。

そう評価せざるを得ない行動が目立ちます。

 

真の問題は、「子の福祉」という語の濫用を裁判所も結局追認していることです。

裁判所がまずすべきは、子の福祉という言葉の厳密な定義だと思います。

現状は、相手方を非難するためのマジックワードに過ぎません。

 

 

「子が会いたがっていない」は面会交流をしない理由になるのか

2021.01.12更新

「子が会いたがっていない」

「子が嫌がっている」

面会交流の代理人業務をしていると、このようなセリフをよく聞くことになります。

貴方は子に会いたいかもしれないが、子は会いたがっていない。

離婚で何より大事なのは、子の福祉のはずだ。

子の福祉よりも、自分の気持ちを優先するのか。

そういう理屈で、面会交流の頻度が減ってしまったり、場合によってはまったく会えなくなったりします。

そして、現行の制度では

「子が『会いたくない」と言っている」

と言われてしまったら、それ以上強制する方法は事実上ありません。

 

確かに、子に負担をかけてまで面会交流を強引に実施するのはおかしい。

しかし、本当に冒頭のようなセリフを面会交流を実施しない理由にしてよいのでしょうか。

私は、それはおかしいと考えています。

 

なぜなら、面会交流は

「子が会いたがっているから」

という理由で実施するものではないからです。

もちろん、

「親が会いたがっているから」

でもありません。

会いたい/会いたくないに関わらず、親と子が関わることそれ自体が、子の人間的成長や発達に資する。

だから、実施するのです。

そういう意味で、「面会交流」という言葉はやはりもっとふさわしい言葉に置き換えられるべきです。

 

親と関わること自体が、子にとって有益である。

両親が揃っている家庭であれば、そのことを疑う意見は少ないはずです。

子が親のことを少々嫌がっていようと、子に関わろうとする親のことを悪く言う人は少ないと思います。

なのに、離婚もしくは別居した途端、片方の親との関わり自体が無益なものとして切り捨てられる。

それは明らかにおかしいです。

 

いや、親と子が関わることそれ自体には有益な価値はない。

そういう意見もあるかもしれません。

そのような貧しく寂しい人間観で、親子の問題に関わってほしくないと切に思います。

 

調停はなぜ交互方式なのか

2020.08.21更新

家事調停は「交互方式」が原則です。

交互方式とは、当事者双方が交互に調停委員と話す進め方です。

 

調停当日、当事者双方はそれぞれ「申立人待合室」「相手方待合室」に入ります。

時間になると、調停委員がどちらかの待合室まで呼びに来ます。

呼ばれた方は調停室に入り、調停委員と30分ほど話します。

その間、もう一方は待合室で待っています。

次に相手方が呼ばれ、やはり30分ほど調停委員と話します。

そのターンを2回ずつ繰り返し、計2時間ほどで一回の調停は終わります。

その間、当事者同士は顔は合わせません。

これが「交互方式」です。

 

この方式を取る根拠は何でしょうか。

実は、家事手続法その他法律には何の規定もありません。

あくまで慣習として「交互方式」を取っているだけなのです。

しかし、この方式でなければいけない理由はあるのでしょうか。

 

そもそも、調停は話し合いです。

離婚等の家庭内のもめ事は必ずしも訴訟になじまないから、わざわざ離婚について「調停前置主義」が取られているのです。

しかし、調停委員に交互に事情を話して、相手の主張は伝言でしか聞けないやり方が果たして「話し合い」の本来の姿でしょうか。

話し合いなのだから、やはり当事者双方が同席して話し合うべきではないでしょうか。

 

実は、「交互方式」は決して一般的な方法ではありません。

アメリカなど諸外国では、当事者同士同席して話し合うのが通常です。

話し合いなのですから、当たり前です。

 

確かに、ただでさえ揉めているのだから、当事者同士顔を合わせたくない、という心情は理解できます。

感情的になってしまうかもしれません。

相手が怖くて思ったことが言えないかもしれません。

 

しかし、こと東京家庭裁判所では、相当割合の当事者は代理人弁護士をつけています。

代理人も同席しており、必要であれば全て代理人から話しても良いのに、なお同席では駄目な理由はあるでしょうか。

 

交互方式には欠点も多いです。

調停委員からの伝言でしか相手の主張を聞けないので、どうしても疑心暗鬼になる。

調停委員の伝言ミスの恐れもある。

顔を合わせないので、つい主張がエスカレートする。

当事者の言い分が本当なら、相手はほぼ狂人としか思えないようなこともあります。

私だけでなく、他ならぬ裁判官や調停委員がそう言っているのです。

 

調停の本来の姿は同席方式ではないか。

私はそう考えています。

 

同席方式が実現しない大きな理由は、当事者の抵抗もあります。

しかし、それ以上に裁判官を含む調停委員の自信の無さがある気がします。

葛藤を抱えた当事者を同席させ、話し合いを仕切るのは専門的な力量が必要です。

現状の調停委員はそのような訓練は受けていません。

 

しかし、一般の民事事件では、裁判官は当然のように紛争当事者を仕切って話し合いを進めています。

労働審判では、当事者同席の上、3回以内でほぼ全ての事件で和解をまとめています。

家事事件に限ってできないわけがありません。

 

定着した慣習を変えるのは難しいかもしれませんが、調停は同席方式が基本とされるべきです。

 

 

裁判所のコロナ対応が酷すぎる

2020.07.17更新

緊急事態宣言を受け、裁判所は4月8日から1か月の期日を取り消し、その期間はさらに5月いっぱいまで延びました。

その当初対応自体はやむを得なかったと一応理解はできます。

コロナ禍がどれほどのもので、どのような対応が必要なのか、当時は誰も知らなかったからです。

 

問題は、6月以降、緊急事態宣言明けです。

まさか裁判所がまったくの無為無策で期日を取り消しただけで、その後のことを考えてもいなかったとは夢にも思いませんでした。

6月頭からいったん取り消しになった期日を順次入れ直していくので、期日の再開は早い件で6月下旬からでした。

2か月分溜まった期日をよろよろと再指定するので、5月後半に予定されていた期日など、普通に9月以降です。

期日の再指定が終わったら、ようやく新件の番です。

調停を申し立ててから1か月以上放置なんてザラです。

せっかく申し立てても、一体いつ決着がつくかどころか、いつ調停が始まるかも読めない。

すべては裁判所の事務作業次第なのです。

 

当たり前ですが、当事者の方はもう裁判所で決着をつけるしかない、この状態はこれ以上耐えられないと思うから、弁護士に依頼し、調停等を申し立てるのです。

裁判所の都合で数か月待つなんてことはできません。

そもそも裁判を受けるのは憲法に規定された国民の権利です。

 

平時から裁判所の事務作業は遅れがちでした。

調停が月1回という頻度自体が遅いのに、東京家裁ではそのペースすら守れなくなっていました。

期日の間が1月半、場合によっては2か月程度空くのが常態化していました。

そこにコロナに対するあまりに稚拙な対応です。

 

真の問題は、そうして悠長に待たされる間に、当事者の抱える問題はどんどん悪化していく、ということです。

離婚までの期間が延びることで、婚姻費用の負担が増える。

面会交流が実施されず、その間も相手は子の監護実績を積み上げていく。

そのような状態で、当事者のストレスが溜まらない訳がありません。

 

裁判所が社会にとってどのような役割を担っているのか。

今回の対応は、裁判所の中の人間にその自覚が決定的に欠けている表れだと思えてなりません。

「連れ去り勝ち」に勝つために

2020.07.15更新

子のいる離婚は「連れ去り勝ち」とよく言われます。

先に子を連れて家を出てしまえば、別居の理由を問わず婚姻費用を請求できる。

婚姻費用は算定表に基づきほぼ自動的に決まるし、給料の差し押さえもできる。

婚姻費用の負担は重いので、離婚を渋る相手を兵糧攻めで離婚に追い込める。

面会交流を実施するかは、自分の気持ちで決められる。

新住所を隠そうと思えば役所だって裁判所だって協力してくれる。

そして、現に子を監護していることが重視されて、子の親権も獲得できる。

 

この一連の流れを「連れ去り勝ち」と呼ぶなら、確かに現在の離婚は「連れ去り勝ち」です。

 

個人的には、上記のような行動が「正解」になってしまうのは制度の欠陥だと考えています。

弁護士が制度の穴をつくような手段を教唆するのも良くないと思います。

しかし、「制度の欠陥だ」と言っているだけでは相談者/依頼者の方には何の役にも立ちません。

では、どのような対抗手段が考えられるでしょうか。

 

現行の制度上、子を連れて別居されてしまった後に出来ることは限られています。

経験上、最も有効な対抗手段は、単純ですが「先に介入すること」です。

配偶者が子を連れて出ていこうとしている気配があったら、先に弁護士から受任通知を送ってしまう。

受任通知中に、

「子の福祉に配慮し、くれぐれも子の現状を動かさないこと。

 万一、協議なく子を連れて出た場合には警察に通報する。」

旨を記載する。

可能であれば、ほぼ同時に離婚調停も申し立ててしまう。

要は、連れ去る側と同様の行動を先にしてしまうことです。

 

正直に言えば、弁護士の受任通知程度では法的強制力はありません。

相手が連れ去ろうと思えば、受任通知が届いていようがいまいが連れ去りは可能です。

しかし、実際には先に受任通知が届いてしまえば、連れ去りを躊躇する相手が多数派というのが実感です。

 

理由としては、連れ去る側も自身の行為が100%正しいとは思っていないので、先に釘を刺されると慎重にならざるを得ない、という心理的な側面があると思います。

また、理屈で言っても、婚姻中は父母は共同で親権を行使するのが原則です。

片方に断りなく子の居所を移すことが正当化されるのはかなり緊急性の高い場合に限られるはずです。

具体的には、離婚意思は固いが、夫婦間の権力関係等の問題で話し合いが成立しないので、先に別居するしかない。

子を主に監護しているのは自分なので、別居の際には連れていくしかない。

子を連れて別居すると言ったら反対されるに決まってるので、気付かれる前に強硬するしかない。

そういった場面に限られるはずです。

 

しかし、当事者間では話し合いは成立しなくとも、第三者である弁護士が相手であれば協議は可能なはずです。

つまり、先に弁護士に委任してしまえば、「話し合いが成立しない」という言い訳が通用しなくなるのです。

 

以上のような理由で、とにかく先に介入してしまうことで「連れ去り勝ち」に一定程度対抗することができます。

 

この手段には誰でも気づく大きな欠点があります。

連れ去られる前に気付かないと意味がない、ということです。

この対抗手段があることを知っている相手であれば、なおのこと隠密に進めるはずです。

本当に前触れなくいきなり連れ去られた場合にはこの手段は取れません。

しかし、私が見聞する範囲では、多くの場合、何らかの前触れがあります。

その前触れを見逃さず、まずは相談に来ていただきたい。

どんなに早くても相談後にしか介入できない弁護士の立場では、そう願うことしかできません。

でも、いったん先に動くことができれば、「連れ去り勝ち」に対抗することは十分可能です。

 

「連れ去り勝ち」の現状は間違っています。

いつまでもこの間違った状態が続くとも思いません。

しかし、「連れ去り勝ち」が否定できないうちは、上記のような方法をはじめ手段を尽くして対抗するしかありません。

 

成人の子のいる離婚

2020.02.10更新

子が成人している場合、親の離婚は子とは無関係。

それが原則です。

 

しかし、養育費がからむと必ずしもそうなりません。

権利者(養育費をもらう側)にしてみれば、子が未成年のうちは養育費を受け取ることができます。

ところが、いったん子が成人してしまえば養育費の支払義務はありません。

 

子が成人してからの離婚であればなおさらです。

財産もあまりない離婚であれば、お金を一銭も受け取れない、ということにもなりかねません。

 

そこで、しばしば、離婚の場に成人の子が絡んでくることになるのです。

 

具体的には、成人の子の養育費が請求される。

婚姻費用にも子の分が乗っけられる。

成人の子が同居することを前提とした転居費用を請求される。

 

調停でも任意協議でもこういった事態はよく起こります。

当たり前ですが、成人した子は大人です。

大人である以上、同じく大人である親の離婚とは無関係であるべきで、やはりこういう事態はおかしいです。

 

私は、こういった事態を引き起こしている責任は裁判所にあると考えています。

未成年のうちは保護の対象だが、成人後は1人の大人。

それが法の原則です。

ところが、裁判所自ら、「未成熟子」なる根拠不明の概念を持ち出し、明確な原則の外枠を曖昧にしてしまっています。

そのことが、成人の子を親の離婚に巻き込む原因になってしまっているのです。

 

そのような事態の最大の被害者は、養育費を受け取れない親や、養育費を余計に払う親ではありません。

親の離婚に巻き込まれ、引っ張り合われる羽目になるお子さんです。

子の福祉が重要というなら、ルールを明確化し、親の離婚に子が巻き込まれる事態こそ最大限回避されるべきです。

 

「未成熟子」とは何なのか

2020.02.09更新

2022年4月1日から、成人年齢が現行の20歳から18歳に引き下げられます。

成人年齢が引き下げられたら、養育費はどうなるのでしょうか?

 

引き下げ以前に合意済みの養育費には影響しないことには特に異論はありません。

20歳までなら20歳までといったん合意した以上、後から成人年齢が引き下がっても影響は受けない、というのは筋が通っています。

 

引き上げ以後に養育費を定める場合はどうでしょうか?

現行、基本は20歳まで、場合によって22歳までが標準的ですが、この基準は変わるのでしょうか?

 

法務省の見解によれば、成人年齢の引き下げは養育費の支払いには影響しないとのことです。

理由は、成人年齢がどうあろうと、経済的に自立していない子は「未成熟子」であることは変わらないから、というものです。

 

しかし、私はこの結論には大いに異論があります。

 

民法766条1項

「父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者、父又は母と子との面会及びその他の交流、子の監護に要する費用の分担その他の子の監護について必要な事項は、その協議で定める。この場合においては、子の利益を最も優先して考慮しなければならない。」

ここで出てくる「子の監護に要する費用の分担」というのが、養育費の法的根拠です。

 

親が子を監護するのは、

「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」(民法820条)

とされているからです。

子の監護は、親の「親権」の一部です。

 

子が親の親権に服するのは、成年に達するまで、つまり未成年のうちです。

「成年に達しない子は、父母の親権に服する。」(民法818条1項)

とあることからも明らかです。

 

要するに、

・養育費=子の監護に要する費用

・子の監護は親権の一部

・子が親権に服するのは成年に達するまで

・2022年4月以降は18歳で成年に達する

と考えると、民法の条文から考える限り、養育費の終期は子が成年に達する18歳まで、という結論にならないでしょうか。

 

もちろん、当事者の間での合意内容は自由です。

22歳まで、大学卒業までと定めているパターンは多いです。

でも、問題は当事者間で争いがあり合意できない場合です。

その場合、裁判所が最終的に定めることになります。

その場合、裁判所はどのような根拠で「20歳まで」と定めるのでしょうか。

そこで出てくるのが「未成熟子」です。

 

しかし、「未成熟子」とは、法的には何なのでしょうか。

子がどのような状態にあれば「未成熟子」で、どうすれば成熟するのでしょうか。

法律のどこにも根拠がないので、判断しようがありません。

 

私は、18歳を過ぎたら子に対する責任がなくなる、と主張したいのではありません。

18歳を過ぎ、成人した子に関する費用の分担について、養育費という枠組みで定めることには無理がある、と言いたいのです。

 

私は、やはり養育費は成年に達するまでが原則だと考えます。

2022年4月1日以降は18歳まで、となります。

その後の費用分担については、その時点までに当事者間で協議して決めるのが原則ではないでしょうか。

当事者間で協議するのが困難な場合もあるでしょうが、法的根拠が乏しい以上、裁判所は介入すべきではないと考えます。

法律で定める「未成年」以外に、「未成熟子」なる根拠不明のくくりを持ち出すことは止めるべきです。

男性側に立った離婚問題の解決を

一時の迷いや尻込みで後悔しないためにも、なるべく早い段階でご相談ください。